古関裕而は、小学生の頃から作曲を始めています。

 

古関裕而は小学時代に作曲した?恩師「遠藤喜美治」の教育とは?

 

小学校卒業後、福島商業学校に入学した古関は

ますます作曲に熱中します。

 

商業学校での私は、ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好きで、

楽譜を買ってきては山田耕筰先生の曲に夢中になったり、

また私自身の作曲に熱中していた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

福島商業学校(以下、「福商」といいます)は5年制で

この間、古関は新しい音楽に触れたり、編曲の技術を覚えたり

指揮を学んだりしています。

 

後年、古関は以下の4人を「わが師」として紹介しています。

附属小学校担任の「遠藤喜美治(キミジ)」

福商4年の時に赴任した「丹治嘉市(カイチ)」「坂内萬(ヨロズ)」

そして福商先輩の「橘登」です。

(「わが師わが母校 」/ 日本教育新聞 昭和52年(1977)年に掲載)

 

橘登とは?

 

明治36年(1903年)、福島県伊達郡梁川町で

橘家の二男として生まれます。

 

同年、橘家は福島市置賜町に「広瀬庵」というそば屋を開業。

 

橘は大正8年(1919年)に福商を卒業し、

大正11年(1922年)、福島ハーモニカ団を創設。

 

福島ハーモニカ団はその4月に、最初の演奏会を開催しています。

演奏者は紋付き羽織袴姿でステージに立ったとか。

 

今では想像もつかない光景ですね。

紋付き羽織袴姿でハーモニカとは、むしろカッコイイかも!?

 

この演奏会が開催された4月に、古関は福商に入学します。

 

大正12年(1923年)、名称が福島ハーモニカ・ソサエティーに変わり

この頃、古関は入会します。

 

ここが古関と橘の出会いかもしれませんね。

 

(橘は)商売はそっちのけでハーモニカ・ソサイティーに情熱を打ち込んでいた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

ハーモニカに没頭していた橘の腕前は確かなもので、

弟とともにハーモニカ吹奏で全国優勝したそうです。

 

古関はハーモニカ・ソサイティーに入会した翌年、

第2回定期演奏会に出演しています。

(自伝に「福商卒業の頃に入会」とあるのは間違いのようです。)

 

ハーモニカ・ソサイティーに入会して間もなく私は指揮を担当した。

勿論、作曲や編曲も担当した。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関に指揮を教えたのは、橘でした。

 

後に「私に音楽そのものを教えてくれた恩人」と語るほど

古関は橘から多くのことを学んだようです。

 

古関は、福商卒業後もハーモニカ・ソサイティーの活動を続け

上京した翌年(昭和6年)には、創立10周年記念の演奏会に

橘とともに指揮者として参加しています。

 

ハーモニカ・ソサイティーは、橘の諸事情により

昭和7年(1932年)に活動を終了。

 

その後は、福島県ハーモニカ協会として継承され

毎年のように演奏会を開催しているようです。

 

古関は、上京した翌年の昭和6年頃から

ハーモニカの勉強会に参加して、菅原明朗(メイロウ)という

音楽理論の大家から学びます。

 

約二年間のこの本格的な理論研究が、後の私の作曲に大きな力となった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

当時、作曲家としての活動を始めて間もない古関にとっては

多いに学ぶことがあったのでしょうね。

菅原明朗(Wikipedia)

 

作曲・編曲を学ぶ日々

 

古関は、ハーモニカ・ソサイティーで活動する傍ら、

「火の鳥の会」の催しに参加しています。

 

「火の鳥の会」とは、いわゆるレコード鑑賞会のようなもので

古関の4~5歳上の友人「三浦通庸(ツウヨウ)」が中心となっていました。

 

主に近代音楽家のレコードコンサートが催されていて

古関はよく出かけて行ったようです。

 

そこで初めてドビュッシーやラベル、ストラビンスキー、

ムソルグスキー等の曲に出会ったのである。

「ボレロ」や「火の鳥」などを聞いた時は「これが音楽か」と驚いた。

それほど強烈な音楽体験だった。私はそれ以来、近代フランス、ロシア

の音楽に夢中になり、レコードコンサートには欠かさず出かけていった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関は、福商3年の頃からオーケストラの作曲を始めます。

作曲だけでなく、編曲もするようになります。

 

「火の鳥の会」で新しい曲に出会い、

気に入った曲があると楽譜を買ってきて、それを見ながら編曲する。

オーケストラ用のスコアを、ハーモニカオーケストラ用に書き直す。

 

古関の熱中ぶりがうかがえますね。

 

山田耕筰先生著の「作曲法」を買って勉強し、次から次へと

作曲・編曲をしていった。初めは自己流ではあったが、

やがてしっかりとしたスコアが書けるようになっていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関は、書店と顔馴染みになるほど楽譜を買い

父親に叱られたことあったとか。

 

古関は、上京して作曲家になった後も

勉強を続けています。

 

「天才」と言われた古関の才能は

たゆみない努力によって支えらていたのでしょう。


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