作詞家野村俊夫は、古関裕而と幼なじみで

古関とともに数々のヒット曲を生み出しました。

 

また、2人は故郷福島県の学校の校歌をたくさん作っています。

 

野村の遺作となった作詞は「富成小学校」の校歌。

こちらに、歌詞と校歌完成までのいきさつが紹介されています。

伊達市富成小学校校歌

 

ここでは、野村俊夫の生い立ちや

古関裕而にまつわるエピソードをご紹介します。

 

野村俊夫は古関の幼なじみ

 

古関裕而の生家は呉服店「喜多三(キタサン)」で、

福島駅から歩いて数分の目抜き通りにありました。

 

現在、その跡地には記念碑が建てられています。

「古関裕而生誕の地記念碑」(福島市大町レンガ通り)

 

野村俊夫の生家は魚屋で、お店は

「喜多三」の通りを隔てた向かい側にありました。

 

野村の本名は鈴木喜八。魚屋の三男に生まれました。

 

私より四、五歳年長で、近所の餓鬼大将であった。

体がそれほど強くない私はその他大勢組で、

それでも仲良く遊んだものだった。 

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関が小学校に入学した頃、野村の家は引っ越します。

 

その後、野村は福島商業学校に入学しますが

家庭の事情だったのでしょうか、就学を断念します。

 

新聞記者時代

 

就学を断念した野村は、伊達郡桑折町(コオリマチ)の富豪

角田林兵衛(ツノダリンベエ)のもとで2年ほど奉公します。

角田林兵衛(Wikipedia)

 

野村は、大正13年から「福島民友新聞」の記者となります。

 

その頃、古関は福島商業学校に通っていて

ハーモニカ・ソサエティーの活動に積極的に参加していました。

 

ハーモニカの練習は週に1、2度行われていて、

そこに野村が顔を出すこともありました。

 

主宰者、橘さんの親友であり、私の幼馴染みである

野村俊夫君が練習日にはひょっこり顔を出して、

合奏に聞き入っていたのはその頃のことである。

自伝「鐘よ 鳴り響け」


古関は、主宰者の橘から指揮を学び

ハーモニカ曲の作曲や編曲もしていました。

 

後に、「私に音楽そのものを教えてくれた恩人」と語るほど

古関は橘から多くのことを学びました。

 

きっと、野村も多くのことを学んだのでしょうね。

 

(野村は)映画俳優バスター・キートンのかぶっていた

ソフトの山を平らにつぶした帽子をかぶり、和服に、

派手なマフラーを襟元にのぞかせたインバネスを着て、

さっそうと市内を闊歩していた。そんな彼の姿がとても印象的であった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」


「インバネス」
とは、ざっくり言うとケープがついたコート。

シャーロック・ホームズのトレードマークになっていますね。

時代は昭和初期ですから

その出で立ちは相当目立っていたでしょうね。

インバネスコート(Wikipedia)

 

「福島行進曲」を作詞

 

昭和3年(1928年)、古関は商業学校を卒業し

伯父の住む川俣町で下宿しながら銀行勤めを始めます。

 

古関は、土日は福島に戻ってハーモニカの練習に参加し

演奏会にも出演していましたから、

野村との交流も続いていたのでしょうね。

 

昭和初期は、全国的にご当地ソングが流行していたそうで

古関は、野村に作詞を勧めます。

 

野村は「北方詩人」に詩を寄稿するなど、詩の道に懸命でした。

 

そして、2人は昭和4年(1929年)に「福島行進曲」を作ります。

 

歌詞は、昭和2年(1927年)に施工された「福ビル」や

福島駅前大通りの「柳並木」など、

当時の福島の様子がしのばれるものでした。

 

「福島行進曲」は、昭和6年(1931年)にレコード化。

 

それは古関が作曲家となって初めて発売するレコードで、

「故郷に捧げるつもりでこの曲を選んだ」のですが

販売成績は良くなかったようです。

市民の支持受け レコード化

 

古関のすすめで上京、戦時歌謡を作詞

 

古関は、昭和5年(1930年)に上京し作曲家デビュー。

翌年、野村に上京をすすめます。

 

野村は新聞記者を辞め、上京した後は

いろいろな仕事をしながら作詞家としての活動を続けました。

 

この頃、人々の暮らしには戦時色が見え始め

士気を上げるような戦時歌謡が求められていました。

 

野村は、戦時歌謡の作詞には消極的だったため

検閲で却下され生活が苦しい時期もあったようです。

 

その後、野村は戦時歌謡を作るようになります。

野村には妻も子もいたので、やむを得なかったのでしょうね。

 

そして、昭和14年(1939年)には

古関と同じコロムビアの専属作詞家となり

翌昭和15年(1940年)に「暁に祈る」が生まれます。

別離の悲哀歌った戦時歌謡

 

この曲について、古関は自伝でこのように語っています。

 

作詞者は幼少の頃からの友人野村俊夫君、

歌手も同じ福島県出身の伊藤久男君。

つまり福島県生まれの三人が揃ってやるという

かねての念願がかなえられることになった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

社歌を作詞

 

野村は、ある会社の社歌を作ります。

 

会社は、「国産機器株式会社」という東京の軍需工場で

社長は角田林兵衛(ツノダリンベエ)でした。

 

「国産機器株式会社」には、古関の商業学校時代の同級生がいました。

社長の角田は、野村が記者になる前に奉公していた富豪です。

 

作詞は野村に、作曲は古関に、という社長の要望がかない

社歌は作られました。

 

古関は、作曲の謝礼を「いりません」と言い

社長、同級生、古関の3人で会食して終わったそうです。

 

母校の復興イベントやのど自慢に参加

 

戦後、2人の母校である福島商業高校が火災にあいます。

(野村は卒業していませんが)

 

火災の翌月、古関はNHKの人気番組を巻き込んで

母校の復興資金を募集するイベントをします。

 

そこで、古関と野村は即興で作詩・作曲。

イベントは大成功したそうです。

 

その後、福島の映画館「新開座」で開催された

のど自慢には、古関と野村が審査員で参加。

 

2人の交流は、故郷福島とともに続きました。

 

古関の妻「金子」は、「何でも福島なのね」と

やきもちを焼いていたとか。

古関は、福島の人も故郷も大切にしていたのですね。

 

福島第二小学校校歌の作詞

 

昭和32年(1957年)、野村作詞、古関作曲の

福島第二小学校の校歌が作られました。

 

野村は、実家が学校区内にあり

作詞料を受け取らなかったそうです。

 

「風だ 光だ」で始まる校歌はどんな感じか

今のところはわかりません。

 

いずれ、古関裕而記念館で耳にする日が

来るかもしれませんね。

古関裕而さん作曲の校歌を福島の記念館で

 

福島商業高校の校歌「若きこころ」

 

昭和32年(1957年)、福島商業高校は創立60周年を迎え

新しい校歌「若きこころ」が作られました。

母校の繁栄を祈る言葉続く

 

野村作詞、古関作曲の校歌は

同窓会のホームページで聞くことができます。

若きこころ(福島商業高等学校ホームページ)

 

福島ゆかりの曲

 

野村作詞、古関作曲による以下の曲は、

福島ゆかりの曲として、福島市役所のホームページで紹介されています。

・福島行進曲(昭和6年)

・ふくしま小唄(年代不明)

・福島音頭(昭和29年)

・ふるさとはいつも瞼に(昭和39年)

古関裕而生誕100年代表曲(福島市ホームページ)

 

遺作も古関との共同作

 

野村は、昭和41年(1966年)10月27日に

61歳の若さで逝去しました。

 

冒頭でご紹介したとおり、「富成小学校」の校歌は野村の遺作で

作詞したのは逝去する3か月ほど前。

古関との最後の共同作でした。

 

古関は「もっともっと仕事をして良い作品を

たくさん残して頂きたかった。」と野村氏の死を悔やんだそうです。

 

その後、野村の生誕100年を記念して

福島民友新聞に「天性の抒情詩人 野村俊夫物語」が連載され

「東京だョおっ母さん―野村俊夫物語」も発売されました。

 

最近では、野村の長男「鈴木克東」さんが語る

エピソードを目にする機会も増えてきました。

 

昭和歌謡史に輝く 野村俊夫生誕115年・古関裕而生誕110年記念鼎談(1)

深夜一人で仕事に没頭 野村俊夫生誕115年・古関裕而生誕110年記念鼎談(2)

 

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