大正11年(1922年)4月、古関は福島県立福島商業学校に入学しました。

現在は福島商業高等学校といい、「福商(フクショウ)」の愛称で親しまれています。

福島県立福島商業高等学校ホームページ

 

福商は明治30年(1897年)に創立され、

大正7年(1918年)には5年制に昇格しました。

 

古関の入学は13歳になる年ですから、現在の中学校と同じですね。

家業の呉服屋「喜多三(キタサン)」を継ぐために入学しますが

古関の卒業前に、父は家業をたたむことになります。

 

福商では正課に音楽がなかったせいでしょうか、古関には

「商業学科どれもが自分にとって面白くない時代だった」ようです。

 

古関は4年生のときに2人の恩師に出会います。

恩師の名は「丹治嘉市(カイチ)」「坂内萬(ヨロズ)」

 

実は、古関は4年生になるときに留年しています。

勉強よりも音楽に熱中したのがその原因のようですが

恩師たちはそんな古関を理解し、古関の才能に気づき

あたたかく見守り支えてくれたのでしょうね。

 

古関は福商の「校歌」や「青春歌」を作曲したり

戦後、福商が火災にあった時には、その翌月に

NHKの番組を巻き込んで復興資金を募集するイベントをしたりと

いろいろと母校に尽力しています。

 

丹治嘉市(カイチ)とは?


丹治は明治38年(1905年)福島市陣場町で生まれ、

福島商業学校、福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)を卒業し

母校の福商に英語教師として赴任しました。

 

丹治は古関の4歳上で、「嘉市ちゃん」と呼ばれ人気がありました。

丹治のおかげもあったのでしょうか、古関は英語の力がついてきて

海外の出版社から新刊のカタログを取り寄せます。

 

カタログの中にフランス語があった時は

丹治に教えてもらいながら、欧米の新しい作曲家の作品に触れていきます。

 

そして、丹治は学生時代に愛用していた仏和大辞典を古関に譲ります。

丹治は音楽の造詣も深く、レコードを購入し

生徒たちを自宅に招いて一緒に聞いていました。

 

古関は、レコードを聞きながら五線譜を書き、

3回聞く頃には、ほぼ書き終わっていたといいます。

 

同級生が、古関を「身近にいる天才」と感じたのも

うなずけますね。

そのころ柔道室で週一回放課後レコードコンサートをやったものだった。

レコードは主として丹治(嘉市)先生がお買いになったものの中から

私が選んで、それに解説(?)をつけたりした。

勿論丹治先生が毎回出席され、他に坂内萬先生も良く来られた。

楽しい小一時間程のパーティーだったが、何よりも先生も生徒も

心から楽しんだ。

「その頃」/「学而」(福商生徒会機関誌)第40号

(昭和44年(1969年)2月発行)

斎藤秀隆著「古関裕而物語」

 

古関は、5年生のときに「学而」(福商生徒会機関誌)で

「音楽漫文」を発表しています。

 

「音楽は理屈でお玉じゃくしでは味わえるものではない。

静かに聴け、楽しく酔え、それが本当の音楽聴衆だ」

そんな内容だったようです。

 

後に、自身で「随分物のわかった偉そうな文章で

我ながらどうも恐れ入った文章」と振り返るのもわかりますね。

 

古関と丹治の師弟関係は、その後もずっと続きます。

古関は、福商を卒業した翌年に、イギリスの楽譜出版社が応募した

作曲コンクールに2等の入選を果たします。

 

後に新聞にも取り上げられたこの入選の話を、

古関は丹治だけに報告していました。

 

古関は作曲家として活動していた時も、

帰省の際には丹治家をしばしば訪問したとか。

 

古関は丹治よりも先に旅立ちますが

終生、二人の師弟関係は続いたようです。

坂内萬(ヨロズ)とは?


坂内は明治32年(1899年)3月、福島県北会津村に生まれ

大正6年(1917年)会津中学校卒業後、

大正15年(1926年)、福商に国語教師として赴任。


27歳で教師になった坂内は、半年ほど過ぎた頃

古関が作曲家志望であることを知ります。

古関君の自宅と私の下宿とは一町内をへだてただけで

非常に近いから、その事があって以来入浴や音楽会には

よく一緒に行った。(中略)

古関君はその度ごとに曲名全部の楽譜をもって行くので

私も見せてもらったが、歌うのが早いのか私の見方がおそいのか

楽譜について行けなかった。

坂内萬遺稿集「わが庭の四季」

斎藤秀隆著「古関裕而物語」


古関は「商業学科どれもが自分にとって面白くない時代だった」

と言っていますが、坂内の授業は違ったようです。

坂内先生の国語も面白く、私は時にはわざと質問して

音楽の方に話を引っぱっていったりした。

坂内先生もすぐ話にとび込んで1時間全然別な音楽談に

花を咲かせた事もしばしばあった。

「その頃」/「学而」(福商生徒会機関誌)第40号

(昭和44年(1969年)2月発行)

斎藤秀隆著「古関裕而物語」


古関は、福商在学中の大正15年(1926年)から

上京直前の昭和5年(1930年)8月頃まで、音楽記録をつけています。

 

いわゆる「音楽ノート」は10冊ほどあるようで、

そのうちの3~4冊は福商在学中に書いていたようです。

 

古関裕而記念館(福島市)に保存されている音楽ノートの

第三篇には、坂内が作詞した曲が記録されています。

・民謡「春は暮れてゆく」

・「福商剣道部歌」

坂内は、他にも「福商青春歌」

野球部応援歌「久遠(クオン)の希望(ノゾミ)に」も作詞しています。

福商青春歌は、福商同窓会のホームページで視聴することができます。

福商青春歌(視聴)

福商同窓会ホームページ

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ
にほんブログ村



スポンサーリンク