古関裕而は、10代最後の2年間を「川俣町(カワマタマチ)」で暮らしました。
古関は、家業の呉服店「喜多三(キタサン)」を継ぐために
福島商業学校に入学しますが、父親は店をたたむことになります。
学校を卒業した後、古関は作曲やハーモニカ団の活動に励みながら
音楽学校に進みたいとひそかに考えていました。
そんな古関に、「銀行に勤めないか」と声をかけたのが
川俣町に住む叔父でした。
叔父「武藤茂平(モヘイ)」は「川俣銀行」の頭取。
武藤家は、古関の母の実家で資産家でした。
川俣町は、福島市から20kmほど離れたところにあります。
今なら車通勤できる距離ですが、時は昭和3年。
古関は、叔父の家に居候しながら銀行に勤めることになります。
川俣町とは?
川俣町は、福島県の北部に位置し、福島市に隣接しています。
川俣町は絹織物の町として知られ、
古くから「絹の里」として栄えてきました。
養蚕と絹織物は江戸時代から盛んで、
江戸城御用の川俣絹を生産するなど、
川俣町は国内で有数の絹織物産地に発展しました。
明治時代、絹産業が日本の近代化を支えたといわれており
川俣町の羽二重(ハブタエ)は輸出の花形商品でした。
古関裕而が作曲した「川俣音頭」の歌詞には
当時の繁栄ぶりが映し出されています。
絹の川俣八千八機(ヤハタ)
ひびく世界に品のよさ
いつでもからりこ 機(ハタ)の音
どんどと織り出せ 国の富
川俣町の教育
平成19年7月発行 発行者:川俣町教育委員会
川俣シルク(川俣羽二重)は、道の駅にある
おりもの展示館「シルクピア」でその歴史を見ることができます。
川俣シルクは現在も受け継がれ、進化を続けています。
以下に、代表的な工場をご紹介します。(五十音順)
町の中には、江戸時代から明治の頃に建てられた蔵が
今でも残っていて、当時の繁栄ぶりを感じることができます。
古関裕而が作曲した川俣の歌
川俣音頭以外にも、古関が作った曲があります。
川俣町民の歌
毎日お昼になると、この曲が流れます。
この歌はどんな経緯で作られたのか、また
いつ頃作られたのか、詳しく知ることはできませんでしたが
町民は毎日耳にしている馴染みの歌です。
川俣中学校校歌
残念ながら、今のところ音源は準備できませんでした。
音源が手に入ったらぜひご紹介したいと思います。
歌詞と楽譜はこんな感じです。
写真は私の生徒手帳です。
だいぶ汚れていて恥ずかしいですが
曲の雰囲気は感じていただけるかと思います。
川俣シャモとは?
川俣町は江戸時代に絹織物の生産で栄え、
たくさんの「絹長者」を生み出しました。
その絹長者たちが親しんだのが「軍鶏(シャモ)」の闘鶏でした。
現在では、川俣シャモは町の特産品として様々な商品が展開されています。
弾力のある肉質とおいしさで、川俣シャモは
福島県ブランドの商品として認証され、
贈答品としても、ふるさと納税の返礼品としても人気があります。
【食物語・川俣シャモ(上)】 旦那衆の闘鶏が起源 福島県のブランド地鶏
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