大正5年(1916)年、古関は福島県師範学校附属小学校に

入学しました。

 

小学校があった場所は、その後、福島県立医科大学となり

福島県庁東分庁舎を経て、現在は福島県警本部があります。

 

小学校は阿武隈川(アブクマガワ)沿いにあって、そばには

松齢橋(ショウレイバシ)がありました。

 

松齢橋の向こう側に「大福餅」を売っているお店があり、

古関は昼休み時間に買いに行ったとか。

「矢の餅」といって平べったい大福の真ん中にシソの葉を

矢羽の形に切ったのがはってある。

とてもうまい餅で昼休みの時間には木のさくの間を抜けて

行っては買ったものだ。

「ふるさとを語る」 / 昭和47年(1972)年『月刊ふくしま』に掲載

斎藤秀隆著「古関裕而物語」

古関は子供の頃から甘党だったのですね。

遠藤喜美治先生との出会い

 

古関が3年生のときにクラス替えがありました。

 

それまでの男女共学のクラスから男女別々に変わった

その時に、遠藤喜美治先生と出会います。

卒業までの四年間、私のクラスは四十七名だったので、

担任の遠藤喜美治先生は、よく忠臣蔵だと言って皆を笑わせていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

担任となった遠藤喜美治先生は、当時27歳。

古関は、遠藤先生を「私に最初の音楽指導をしてくれた先生」

と語っています。

唱歌とつづり方を指導してくださる遠藤先生は、大変な

音楽好きであった。自ら作曲をなさるばかりか、私たちにも

童謡を作らせるほどに、音楽教育に熱心な方であった。

先生の作られる曲は大変美しく、童謡の作曲も楽しかった。

私にとって唱歌は最も楽しみな授業になった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

生徒に童謡を作らせたり作曲させたりするなんて、

教育熱心というか、ある意味型破りな感じさえしますね。

 

古関が作曲家として活動し始めてから10年ほど過ぎた

昭和16年(1941)年頃、遠藤と古関は要田小学校の校歌を作ります。

 

この小学校は遠藤先生の出身校です。

遠藤喜美治が作詞した校歌は、現在は歌詞が変わっていますが

今でも歌い継がれているようです。

要田小学校校歌いまと昔(福島県田村市)

 

朝ドラ「エール」では、森山直太朗さんが遠藤先生を演じます。

どんな先生を演じるのでしょうか?

古関と妹尾楽譜

 

古関は作曲に夢中になり、クラスメートに頼まれて

曲をつけるようになります。

 

そして、授業だけではもの足りなくなり、市販されている楽譜を

買ってくるようになります。

 

市販の楽譜とは「妹尾(セノオ)楽譜」。

表紙が竹久夢二の絵で、それも古関は気に入っていたようです。

 

古関は、大正7年頃、福島で開催された「竹久夢二展」を

見に行っています。

小学生だった古関に、夢二の作品はどのように映ったのでしょうね。

 

妹尾楽譜の表紙は、インターネットで見ることができます。

どれも魅力的でうっとりしますね。

妹尾楽譜(画像検索)

 

古関の生家があった福島市大町には、「西沢書店」があります。

この書店は、戦前は紀伊国屋書店などとならび全国に販売網を持つ

大手書店だったそうです。

 

古関は、友人とこの書店にいるときに関東大震災を経験しています。

妹尾楽譜も、この書店で買い求めていたのでしょうか・・・?

西沢書店(Wikipedia)

西沢書店ホームページ

母が買ってくれた卓上ピアノ

 

作曲に夢中になる古関に、母は卓上ピアノを買ってくれます。

「黒鍵もあり、三オクターブくらい弾けるもの」だったとか。

 

イメージとしてはこんな感じでしょうか。

その日から夢中になってこのピアノに向かった。

知っている曲の楽譜を買ってきてはさぐり弾きをした。

面白くてたまらず私は熱中した。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関は作曲にピアノに夢中になり、遠藤先生の指導のおかげもあって

小学校を卒業する頃には、楽譜が自由に読めるようになります。

 

そしてこの後、古関は福島商業学校に入学し

音楽熱はますます過熱します。

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