伊藤久男は、福島県生まれの歌手。

古関裕而の1つ年下で、古関の作品をたくさん歌っています。

 

古関の指揮で歌う伊藤の姿はこちら。

 

動画は1975年ですから、古関66歳・伊藤65歳の頃です。

ダイナミックな歌にすっかり見とれてしまいます。

 

ここでは、伊藤の生まれ故郷や

古関と伊藤のエピソードなどをご紹介します。

 

本名「四三男(シサオ)」の由来は?

 

伊藤久男は、明治43年(1910年)7月7日に

福島県本宮市で生まれました。

 

本名は「伊藤四三男(シサオ)」

生まれた年の明治43年にちなんでつけられたそうです。

 

伊藤家は「豪農」で、父の「伊藤彌(ワタル)」と

兄の「伊藤幟(ノボリ)」は2人とも政治家でした。

 

家にはピアノがあったといいますから、

かなり裕福な家庭だったようです。

 

伊藤はピアノに没頭し、ピアニストを目指すようになります。

 

古関の生家も裕福で、小学生の頃には

母親が買ってきた卓上ピアノに熱中していましたね。

 

伊藤の故郷「本宮市」とは?

 

本宮市は、かつては「安達郡本宮町」といい

平成19年(2007年)、安達郡白沢村と合併し誕生しました。

 

本宮市は福島県のほぼ中央に位置します。

「福島のへそ」と言うのはビミョーな感じがしますが・・・

本宮市で暮らしてみませんか?(本宮市ホームページ)

 

本宮市は、福島県の「住みよさランキング」

10年連続1位になっています。

2019年は北海道・東北ブロックで2位になりました。

「住みよさランキング2019」関東&北海道東北編

 

2019年10月の台風19号で、本宮市は大きな被害を受けました。

阿武隈(アブクマ)川と安達太良(アダタラ)川の氾濫により

広範囲が浸水。7人が犠牲となりました。

 

年末に、天皇・皇后両陛下の訪問を受けたのは

記憶に新しいところです。

被災者の苦労いたわる 両陛下、初のご来県

 

「蛇の鼻」は別荘だった!?

 

「蛇の鼻(ジャノハナ)遊楽園」は、福島県民なら

耳ににしたことがあるかと思います。

 

「蛇の鼻」は、伊藤久男の父「彌(ワタル)」が

明治時代末期に造った庭園です。

 

桜、ツツジ、フジ、バラ、秋の紅葉と通年楽しめるだけでなく、

園内の高台には「蛇の鼻御殿」があります。

 

「蛇の鼻御殿」は伊藤彌の別荘で、完成は明治37年(1904年)。

建設には10年もの歳月が費やされ、贅をつくした造りになっています。

 

御殿は、平成8年(1996年)12月に登録有形文化財として登録され

年末年始以外は拝観可能となっています。(冬季は要予約)

蛇の鼻御殿について(蛇の鼻ホームページ)

 

農大に進学し、古関との出会いへ

 

伊藤家は豪農でしたから、久男は農業の道を期待され

岩瀬農業学校を卒業後、東京農大に進学します。

 

その頃、古関は金子と2人で上京。

古関はコロムビアの専属作曲家になり、

金子は昭和6年(1931年)4月、帝国音楽学校に入学します。

 

音楽学校は世田谷区代田にあり、古関夫妻は近くに引っ越し、

そこで伊藤と出会います。

 

(伊藤は)最初農大の学生だったが、声楽への志望やみがたく、

ついに農大を中途退学して妻と同じ学校の声楽科に入学した。

当時、私が妻の通学の便を考えて、阿佐ヶ谷から世田谷代田に

引っ越していた。それがたまたま伊藤君の下宿の近くでもあった。

そんな訳で、彼はいつも私宅へ遊びに来ては

夜遅くまで話し込んだりしていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

近くには「宮尾利雄」も住んでいました。

宮尾は本宮市出身で伊藤と同級生、古関とは商業学校の同級生でした。

(古関は商業学校のときに留年しています。)

 

古関は、川俣銀行に勤めていた頃、東京在住の宮尾に

ハガキを送り、近況を報告していました。

2人は商業学校時代から親密だったようです。

 

故郷から遠く離れた「世田谷」でつながった3人は

強い絆で結ばれていたのではないでしょうか。

 

「紺碧の空」と農大退学

 

伊藤は、昭和6年(1931年)8月に音楽学校へ入学。

 

翌9月に「紺碧(コンペキ)の空」が作られました。

「紺碧の空」は早稲田大学の応援歌で、古関が作曲しました。

 

作曲を依頼したのは、伊藤久男の従兄弟「伊藤戊(シゲル)」

伊藤戊は、早稲田大学の応援団幹部で

兄と世田谷区代田に下宿していました。

 

本宮市出身の伊藤たち3人と同級生宮尾、古関夫妻は

たちまち親密になったようです。

 

伊藤茂君の話を聞いて、早稲田のためにいい曲を作りましょう

と引き受けたものの、まだ応援歌は経験も浅く、

なかなか歌詞にピッタリした旋律が浮かばない。

一日延ばしにしているうちに、早大の発表会は目前に迫っていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

「紺碧の空」を作詞したのは「住治男(スミハルオ)」

住は古関と同い年で、高等師範部3年生でした。

既に俳号を持った歌人だったとか。

 

作詞者の住治男君はよく遊びに来られたが、岩波書店に就職し、

昭和十年頃まだ若くして病没されたのは、全く惜しまれてならない。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

伊藤は、古関の妻金子と同じ音楽学校に入学し

家族に内緒で農大を退学していましたが、

家族に知られることとなり、仕送りを止められてしまいます。

 

伊藤は、古関のすすめでレコードに吹込みをする仕事を開始。

昭和8年(1933年)にコロムビア関連のレーベルからデビューします。

 

伊藤久男の親戚「大天狗酒造」とは?

 

古関に「紺碧の空」の作曲を依頼した「伊藤戊(シゲル)」は

伊藤久男の従兄弟で、生家は「大天狗酒造」を営んでいました。

 

大天狗酒造は本宮駅から徒歩1分の場所にあり、

明治5年(1872年)に創業した老舗です。

大天狗酒造

 

現在は、跡取り娘の小針沙織さんが

杜氏として、ネットショップ運営者として多方面で活躍しています。

朗らかに、私らしく大天狗酒造(福島県本宮市)

 

お店は台風19号で大きな被害を受けましたが、

小針さんは東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれ

「聖火リレーで復興をアピールしたい」と意気込んでいるとか。

大天狗酒造・小針沙織さん(高校58回卒)台風被害支援&聖火ランナー決定

 

伊藤久男はお酒をこよなく愛し、

大天狗酒造のお酒をたくさん飲んでいたそうです。(以下のブログに記載あり)

高校球児の聖地巡礼スポット?!(小針沙織さんブログ)

 

「暁に祈る」

 

昭和10年代になると、伊藤は戦時歌謡のレコーディングが多くなります。

 

「勝って来るぞと勇ましく」と始まる「露営の歌」は

古関による作曲で、出征兵士を見送る際に多くの人が歌いました。

 

「露営の歌」は伊藤久男の他に

福島県いわき市出身の霧島昇など、複数の人が歌ったため

伊藤の持ち歌にはならなかったようです。

 

昭和15年(1940年)に発売された「暁に祈る」は

映画の主題歌として、古関に作曲依頼されました。

つい、ナレーションにも聞き入ってしまいますね。

(酒屋の二男、と言ってるのは間違いのようですね)

 

作詞は、古関と幼なじみの「野村俊夫」でした。

「福島トリオ」が誕生した瞬間です。

 

作詞者は幼少の頃からの友人野村俊夫君、

歌手も同じ福島県出身の伊藤久男君。

つまり福島県生まれの三人が揃ってやるという

かねての念願がかなえられることになった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

この歌は、何度も歌詞の書き直しが指示されたようで

自伝にはこんなエピソードが紹介されています。

 

後で野村君は作り直すのがいやになり、

「ああ」とため息が出たので、

それを冒頭に持ってきたと冗談まじりに話していた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

古関は、曲を一気に書き上げたといいますが

冒頭の「ああ」には悩んだようです。

 

歌い始めの「ああ」に思い悩んでいた時、

詩吟の好きな妻が詩吟をやり始めた。

これだとばかりに「あーあ」を、

すらすらとメロディーが流れ始めた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

伊藤と同じ音楽学校に通っていた金子の歌声が

古関にアイディアをもたらしたのですね。

 

むかしの仲間

 

昭和45年(1970年)、古関は「むかしの仲間」を作曲します。

作詞は西條八十(サイジョウヤソ)。

 

西條八十はこの年に亡くなっていますので、

遺作に近いものだったかもしれません。

西條八十(Wikipedia)

 

こちらには、伊藤に「歌手40周年を記念して送られた曲の1つ」と

紹介されています。

(40周年が合っているか?ビミョーな感じですが)

古関裕而ライブラリー~ラジオ福島レコード室より~

 

この曲、つい最近福島ラジオで放送されたようですが

私はこのラジオ番組も知らず、聞き逃してしまいました。

 

歌詞も見つけることができず、

詳しいことがわからずにちょっとモヤモヤしています。

 

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