古関裕而の母「ヒサ」は、川俣町の「ちりめん屋」で生まれました。
NHKの朝ドラでは、古関の母は菊池桃子さんが、
生家「ちりめん屋」の当主は風間杜夫さんが演じています。
ここでは、「ちりめん屋」とはどんなところだったのか、
当主の「武藤茂平」とはどんな人物だったのかご紹介します。
ちりめん屋とは?
「ちりめん屋」は、味噌や醤油の醸造をしていて
当主は、代々「武藤茂平」を襲名していました。
家から見える四方の山は全部武藤家の所有と言われていた。(中略)
多額納税者として貴族院議員を勤めたこともあった。
そのかたわら川俣銀行を経営していた。
自伝「鐘よ 鳴り響け」
武藤茂平は、町や国に多額の寄付をしていました。
当時の様子が垣間見える資料があります。
川俣町の写真集(第三集) 平成8年12月発行 発行者:大泉吉三
明治26年、川俣電信局創設費として金二十圓寄付とか
明治37~38年、戦役の際にお金や軍需品を寄付とか
福島県でも指折りの資産家だったというのもうなずける話ですね。
古関の母の兄「一郎」は長男で、武藤茂平を襲名。
二男の「二郎」は川俣銀行に勤務していて、後に
古関裕而と一緒に仕事をすることになります。
裕而は、子供の頃、母と一緒に何度もちりめん屋に来ていました。
裕而の家からちりめん屋までは約20km。
時は大正時代。
道路も交通機関も、まだ整備されていない時代です。
裕而は母と途中まで汽車で来て、そこから車に乗って
12 kmほど、でこぼこ道をゆられながら向かったとか。
母の家で朝、目がさめるとまず裏庭から鶏の声が聞こえ、
向かいの鍛冶屋の槌の音が響いてくる。
私にとって川俣の朝の音楽である。
やがて町のあちこちから筬(オサ)の音が響き出してくる。
町を歩くと福島では珍しい外人の姿が見られ、子供心にも好奇の目を
輝かしたものだった。
「作曲を志す町」(昭和50年ワイドカラー「旅」(研秀出版) )
川俣町の写真集(第三集) 平成8年12月発行 発行者:大泉吉三
幼少の裕而にとって、母の生家「ちりめん屋」で
過ごす時間は特別だったのではないでしょうか。
現在のちりめん屋は?
私の祖父は、ちりめん屋に勤務していました。
祖父は古関裕而の1歳上くらい。
古関は10代最後の2年間、ちりめん屋に下宿していたので
祖父とどこかですれ違っていたかもしれません。
ちりめん屋には娘さんが2人いました。
古関は昭和5年にはちりめん屋を離れていて
娘さんたちはその10年後位に生まれているようです。
私の母の妹は、娘さんと仲良しでした。
そのおかげなのでしょうね、子供の頃は
私の母も一緒にちりめん屋に行って遊んでいました。
母の思い出話といえば、
「家には旦那さま専用のトイレがあり便器は青い色だった」
当時、長屋住まいで共同トイレだった母にとって
それは衝撃だったのでしょう。
当時のちりめん屋の写真は見つかりませんでしたが、
祖母が写っている写真に、
ちりめん屋が背景になっているものがありました。
写真は昭和30~40年代頃のものだと思います。
左側の大きな建物は本屋さん(現在もあります)、
その奥に木が何本も立っている所がちりめん屋です。
こちらが現在。雪の日に撮影しました。
反対側から見るとこんな感じです。
これはちりめん屋の蔵。
蔵の隣に2体の仏像が写っています。
ちりめん屋の裏にお寺があり、お寺に通じる坂の入口に
仏像があります。
こちらが現在。蔵と仏像は同じ場所にありますね。
ちりめん屋があった場所は、現在は違う会社になっています。
敷地の広さや残っている蔵から、
ほんの少しだけ、当時を感じることができます。
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