古関裕而の生家は現在は残っていませんが

自伝「鐘よ 鳴り響け」や斎藤秀隆著「古関裕而物語」から

当時の様子を知ることができます。

 

ここでは、2冊の本から見えてくる古関の生家と

幼少時代についてご紹介したいと思います。

 

生家は老舗の「呉服店」

 

古関裕而の生家は「喜多三(キタサン)」という呉服店で

福島駅から歩いて数分の福島市大町にありました。

 

「喜多三」は市内有数の老舗だったそうで、

現在、その跡地には記念碑が建てられています。

「古関裕而生誕の地記念碑」(福島市大町レンガ通り)

 

裕而は、明治42年(1909年)8月11日に

「喜多三」の長男として生まれました。

 

両親は長い間子供ができず、

養子をもらおうかという話もあったとか。

 

そんな矢先に生まれた裕而は可愛がられ、大事に育てられたようです。

 

裕而はお坊ちゃん育ちだった?

 

待望の跡継ぎとして生まれた裕而。

3歳頃の写真がこちら。

引用:斎藤秀隆著「古関裕而物語」

撮影は明治45年(1912年)頃。

この頃は、まだ弟(弘之:ヒロシ)が生まれておらず

裕而が大事にされていたことがうかがえますね。

 

裕而の息子さんの話によると、

「父は子供の頃、よく乳母に付き添われながら、福島駅近くの

線路をまたぐ跨線橋(コセンキョウ)に汽車を見に行った」そうです。

 

乳母がいる生活!?

裕而はお坊ちゃん育ちだったのでしょうね。

 

いわゆる音楽好きの父は、大正初期といえばまだ珍しい蓄音器を

店の使用人の娯楽用に購入し、余暇にはいつもレコードをかけていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関の、音楽好きで新しいものが好きなところは

父親譲りだったのかもしれませんね。

 

作詞家「野村俊夫」との出会い

 

「野村俊夫」は、裕而とコンビを組みヒット曲を生み出した作詞家です。

 

彼は、福島市大町の魚屋の三男に生まれました。

生家は「喜多三」の通りを隔てた向かい側にありました。

 

本名は鈴木喜八といって、裕而より5歳年上。

近所のガキ大将だったそうです。

 

裕而が小学校に入学した頃、彼の家は引っ越します。

 

その後、地元紙の記者をし、先に上京した裕而に勧められて上京。

作詞家として活動を始めます。

 

幼馴染みだった2人が、後に作詞家・作曲家となって

ヒット曲を生み出すなんて、ドラマみたいな話ですね。

 

ちなみに、NHK朝ドラ「エール」では中村蒼(アオイ)さんが演じます。

野村俊夫(Wikipedia)

 

生家の転居先は?

 

古関の生家は、その後転居しています。

 

大正13年、喜多三は福島市新町70番地に転居した。

斎藤秀隆著「古関裕而物語」

転居先の向かいには教会があったそうです。

 

新町の教会といえば、真っ先に思い浮かぶのがこちら。

この写真は、平成23年(2011年)8月に撮影しました。

東日本大震災後のためでしょうか、足場のようなものが見えます。

 

この教会は、昭和2年(1927年)に建てられました。

建築家ヴォーリズが携わった建物として知られています。

日本基督教団福島新町教会

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(Wikipedia)

 

教会が建てられた頃、裕而は「福島商業学校」に通っていました。

教会の鐘の音を裕而は耳にしていたかもしれませんね。

 

「(生家の)転居先の向かいの教会」がどこだったのか、

詳細については把握できておりませんが、

「新町の教会」としてこちらをご紹介しました。

 

間違いや不足事項などございましたら

「お問い合わせ先」よりご指摘いただけると嬉しいです。

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