古関は、10歳の頃から作曲を始めました。

福島商業学校時代には、作曲・編曲を本格的に始め

ペンネームをつけています。

本名「勇治」では勇ましい感じがし、私には合わない気がしていたので、

何か音楽家らしい名前に変えてみようと思った。

引用:自伝「鐘よ 鳴り響け」

「勇」を「裕」にしたのは、

何となくこの字が好きだったからだそうで、

「治」を「而」にしたのは「学而」がその由来になっています。

 

「学而」とは?

 

古関の母校「福島商業学校」には、学而会という組織がありました。

いわゆる生徒会のような組織で、会長は学校長、

教職員は特別会員、生徒は会員とう構成だったようです。

 

「学而」は、学而会の機関誌で、創刊は大正13年頃。

古関は、「学而」の創刊当時から寄稿していました。

引用:斎藤秀隆著「古関裕二物語」

創刊号では「五色沼」という昔話が

第三号では「我国に於ける無線電信電話発達の概要」という文章が

掲載されています。

 

古関は童話作家だった?

 

「五色沼」は、古関の現存する文章で最も古いものと

されています。

斎藤秀隆著「古関裕二物語」に、その一部が

現代仮名遣いに改められて紹介されています。

 

あらすじはこんな感じです。

山田という長者(お金持ち)夫婦には子供がいなかったが

懸命な祈願のすえ、小金丸(主人公)が誕生する。

働き者で評判の小金丸だったが、

いつしか気がふさぎ、容体が弱っていく。

小金丸は「死ぬまでに山の上の沼を見たい」と願い

カゴに乗せられて山に向かう。

山の上に着いたのは夜。

小金丸は沼の中へ入って行きしばらくすると、金龍が姿を現す。

金龍は、自分の体は神様のものであること、

自分は神の使いとして山田の家に生まれたこと、

これからは沼に住む、と言い沼の中へ姿を消す。

沼の色は、金龍が言ったとおり毎日五色に変わり

村は水に困らずいつも豊作であった・・・

 

古関は、14、15歳でこの昔話を書いています。

 

かなりボリュームのあるお話ですね。

 

ここでは、ほんの一部分ですがご紹介します。

 

まずは冒頭の部分。

それはずっと昔の事であります。吾妻の麓の佐倉という所に

山田某(ボウ)という長者が住んで居りました。見渡すかぎり

広々とした信夫野の田圃(タンボ)は、みんなこの長者のもので

した。

このように何一つとして不足のないこの長者には、一人の子供

もありませんで、長者夫婦はどうかして子供を得たいものだと

一生懸命に、氏神様に祈願をいたしました。その二人の誠が神に

通じたのか、間もなく二人は玉の様な可愛い男の子を得ました。

長者夫婦の喜びは一方ではありませんで、早速名を小金丸と名付

けて蝶よ花よと育てました。

引用:斎藤秀隆著「古関裕二物語」

 

次に、金龍が話す場面。

すると池の中の真ん中より眼もくらむような光がして、一匹の

金龍がぬっと半身を浮かばせました。その時の恐ろしさは、

なんともたとえようがありませんでした。やがて金龍は声を上げて、

「皆様いろいろお世話になりました。私はまた神様から招かれて、

元のからだにかえらなければなりません。私の身体は神様のもの

でございます。神様は私を使者として山田の家に育てさせました。

本当の事は私の寝ていた布団の下を見れば直ぐ分かります。

これから私はこの沼に住みます。私が天に帰るまでは毎日この沼の

色が五色に変ります。また日照り時には石を入れて下されば何時でも

雨を降らせます。どうぞお帰りになりましたら、お父さんやお母さん

によろしく申してください」

これだけの言葉を残して、その儘(ママ)沼の中へ消えてしまいました。

驚いて帰って来た村人は、この話をのこらず山田の長者に聞かせました。

引用:斎藤秀隆著「古関裕二物語」

 

ストーリーも目を見張るものがありますが

何とも言えない言葉の美しさ。心ひかれますね。

 

最初のペンネームはラジオ?

 

新しいものが好きで、機械も好きだった古関は、

学生時代に「楽治雄(ラジオ)」という名前を使っています。

 

作曲のときは「裕而」を使い、

ハーモニカ合奏などのときには「楽治雄(ラジオ)」の

名前を使っていたようです。

 

古関のラジオ好きは本格的だったようで、

放送開始に合わせラジオを自作しています。

東京放送局がラジオ放送を開始するというので、私はさっそく

ラジオ造りに取り組んだ。

機械が好きで、月刊雑誌「無線と実験」の愛読者であった私は、

作曲のかたわら夢中になって、こまごまとした機械を造っていた。

そこで、初めての電波放送の様子を手製のラジオで聞こうと思った

のである。大正も末期十四年初夏のことである。

放送開始の七月十二日当日、私は手製ラジオを前にして、

音がするのを今か今かと待ちかねていた。

だが、ついに私のラジオから何も聞こえてはこなかった。

引用:自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

きっと、この経験をもとに古関は

「我国に於ける無線電信電話発達の概要」という文章を

「学而」に掲載したのでしょう。

 

タイトルからして本格的な感じがします。

17、8歳の頃に書いたとは思えないですね。

 

古関が愛読していた「無線と実験」は現在も続いています。

表紙はどれもカッコイイ!

「無線と実験」(Wikipedia)

古関は、「商業学科どれもが自分にとって面白くない時代だった」と

語っていますが

音楽に、文学に、ラジオに・・・と興味があることは

とことん学び、研究していたのでしょうね。

 

同級生は、「(古関は)性格はおとなしく、どちらかと言うと

人とあまり話をせず」と語りますが

内に秘めたパワーは測り知れないほどだったのでしょう。

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