古関裕而と同じ福島県人で、古関と名作を作った詩人といえば

坂内萬(ヨロズ)、野村俊夫、そして丘灯至夫(オカトシオ)があげられます。

 

丘の代表作といえば「高原列車は行く」や「高校三年生」ですね。

個人的にはこちらの歌が大好きです!

 

タツノコチャンネルは今回初めて知りました。

いろんな名作アニメが楽しめて最高です!

 

古関と丘は、校歌を多数作っていて

茨城県の阿見第二小学校校歌は原詩・原譜ともにWeb公開されています。

阿見二小校歌(茨城県阿見町ホームページ)

 

ここでは、丘の故郷や古関とのエピソードをご紹介します。

 

小野町とは?

 

丘灯至夫(オカトシオ)は、大正6年(1917年)2月8日に生まれました。

古関は明治42年(1909年)生まれですから、丘は8歳年下ですね。

 

丘の本名は「西山安吉」

旅館の六男として生まれました。

 

生家は、福島県小野町にある「西田屋旅館」

現存するようですが、同じ名称ではないようです。

 

丘が生まれた小野町は、かつては小野新町(オノニイマチ)といいました。

昭和30年(1955年)2月に、飯豊(イイトヨ)村、夏井村と合併し

小野町となっています。

小野町公式ホームページ(プロフィール)

発酵学で有名な「小泉武夫」さんも小野町出身。

「福島県県民の歌」を作詞した「吉田武」さんも小野町出身。

人口は1万人足らずの小さな町ですがスゴイ町ですね!

小泉武夫(Wikipedia)

 

丘は、小野町の名誉町民第1号で

町の防災無線では1日3回、丘の曲が流れています。

 

小野町の時報チャイム(平成26年10月1日から)

・午前6時:小野町民の歌

・正午   :高原列車は行く

・午後5時:高校三年生

・午後9時:山のロザリア

(町民の歌以外は丘の作詞・訳詞によるもの)

 

小野町には、丘の記念館があります。

記念館は「ふるさと文化の館」内にあり、月曜日が休館日となっています。

ふるさと文化の館(小野町ホームページ)

リカちゃんの聖地「リカちゃんキャッスル」も小野町にあります。

https://twitter.com/jazzkazumi/status/1230066416801308672

 

リカちゃんキャッスルはオンライショップもあるので便利です。

リカちゃんキャッスル

 

丘が卒業した金透小学校・郡山商業とは?

 

丘は、生まれてから1年ちょっとで小野町から郡山市へ移りました。

その理由は、父親の仕事の関係だったようです。

 

丘は金透小学校に入学しますが、小さい頃から体が弱く

学校は休みがち。

遠足や修学旅行にはほとんど行けなかったとか。

 

小学校の建物は一部復元され、金透記念館として公開されています。

建築ファンにはたまらないですね。

金透記念館は、毎週木曜日の午後に観覧可能です。(要予約)

【こおりやま まちなか探訪 ~金透記念館~】

 

その後、丘は郡山商工学校商業科に入学。

現在は福島県立郡山商業高校となりました。

 

丘と古関は、昭和49年(1974年)に講演会を実施。

「郡商青春歌」と応援歌「闘魂」は2人により作られました。

 

「郡商青春歌」は、毎年開催されている

「丘灯至夫作品を歌う会」で歌われているようです。

 

古関と丘の出会い

 

丘は体が弱かったため、仕事は長続きしませんでしたが

文芸誌に投稿したり手紙を出したりして「西條八十」と交流。

 

昭和10年(1935年)、丘は18歳で「西條八十」に弟子入りします。

 

その頃、古関はヒット曲を出し人気作曲家の仲間入りをします。

世田谷区代田から引っ越して、同じ世田谷区内に家を建てます。

 

昭和11年(1936年)、丘は知人の紹介で古関邸を訪ねます。

 

この年、古関は「西條八十」の詞を何曲も作曲していました。

丘は「西條八十」の門下生で、同じ福島県人ですから

すぐに意気投合したようです。

 

この後、古関が亡くなるまでの半世紀以上、2人の交友は続きます。

 

古関の生家に下宿

 

その後、丘はNHKに入局。

福島県郡山市の放送局でアナウンサーを務めたこともありました。

 

翌年、NHKから毎日新聞に転職し

福島支局の記者となります。

 

日本は戦時色が強くなり、

古関の娘さんたちは古関の生家へ疎開します。

 

当時福島の家の二階は、郡山出身の毎日新聞記者、

西山安吉君に一部屋貸してあった。

彼は非常に機智のある人で、詩も西条先生の門をくぐり、

郡山で詩のグループを作り、上京の時はいつも珍しい物を

手に入れて持参してくれるので、家内とも親しかった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

丘は古関の家族とも親交が深かったのでしょう。

10歳前後だった娘さんたちにとって、丘の存在は

心強かったでしょうね。

 

西山君、後にコロムビア専属作詞家、丘灯至夫氏である。

なぜ、その名をつけたのかと聞くと、

「新聞記者は押(おし)と顔(かお)がきく、

これを逆に読むと、ほら、おかとしお。アハハハ」と笑う。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

古関が、丘を「機知のある人」というのもうなずける話ですね。

その一方で、丘は非常に頼りになる存在でもありました。

 

昭和20年(1945年)7月、古関の家族は疎開先を変更。

妻と娘さんたちは福島市の飯坂温泉に移動し

知人の離れ座敷に部屋を借ります。

 

そこで、妻「金子」は腸チフスにかかり意識不明の重体となります。

 

七月中旬、東京の放送局から私に至急連絡があり、

「福島の奥さんが腸チフスにかかり重態だから、

すぐ来るように」と福島放送局からの伝言であった。

当時は電話も不通午前であったから、小さい娘たちは

オロオロするばかりであったが、さすが西山君。

すぐに福島放送局に走ってくれたのだ。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

丘の機転と「顔がきいた」おかげで

古関たちは助けられ、妻金子は1か月ほどで退院できました。

 

コロムビアの専属作詞家へ

 

戦後、丘は毎日新聞社の本社へ転勤。

記者として活躍しながら、コロムビアの専属作詞家となります。

 

丘は定年退職するまで毎日新聞社に籍がありました。

 

「高校三年生」を歌った舟木一夫さんは

「丘先生に最初に出会った時、お体が悪かったので、

この方は本当に大丈夫なのかと心配しました。」と言いますから

体の弱さは相変わらずだったようです。

 

息子さんが心配するほど「体調は最悪」のまま、

丘は仕事を続けました。

 

「高校三年生」がヒットした63年から仕事は多忙を極めたが

体調は最悪だった。食事はのどを通らず、食べても消化しない。

身長150センチで体重は30キロ台。1年の3分の1は病院、

3分の1は湯治という生活だった。

作詩家・丘灯至夫 『高校三年生』に託した青春の夢(西山謹司)

丘の息子さんが語る思い出はこちらで読むことができます。

作詩家・丘灯至夫 『高校三年生』に託した青春の夢(西山謹司)

 

福島を大事にした2人

 

福島市では、昭和45年(1970年)から「わらじまつり」がスタート。

「わらじ音頭」は古関が作曲、丘は詩を補作しています。

現在、曲はアレンジされて引き継がれています。

 

丘と古関は、福島県内の校歌や企業歌を多数作っています。

昭和53年(1978年)11月、2人は東和町を訪れ

東和中学校の校歌発表会に出席しました。

 

コロムビアの歌手が来て歌ったり、

古関の指揮で全員合唱したりと、心に残る発表会となったようです。

 

東和中学校の校歌はこちら。力強さを感じますね。

東和中学校ホームページ

歌詞を全部ご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

東和中学校ホームページ

 

いつもユーモアたっぷり

 

丘には、ユーモアたっぷりの人柄がしのばれる

エピソードがたくさんあります。

 

自身が90歳の時に開いたのは「青春パーティー」!!

 

永六輔さんやコロムビアの歌手の方々など集まる中、

「歳の話はしないで」とみんなを笑わせたとか。

丘灯至夫90歳の青春パーティー(沙和あい子)

90歳の青春パーティー(峰村健司医師)

 

「高原列車は行く」をはじめ、丘と古関は

乗り物の歌をたくさん作っていました。

 

「乗り物の歌ばかり作るね」と言う古関に

丘は「まだ作っていないのは乳母車の歌と

霊柩車の歌ぐらいですよ」と答えたとか。

 

そして。

丘は本当に霊柩車の歌を作りました。

 

丘が作詞した「霊柩車は行くよ」

「いろいろお世話になりました」で始まり

あの世を「どんな素敵なとこでしょう」と、

新しい世界にワクワクするような内容になっています。

 

この曲は遺作となり、発売された翌年に丘は逝去します。

丘の遺言おどり、お葬式では「高校三年生」と「霊柩車は行くよ」を

繰り返し流したそうです。

 

「霊柩車は行くよ」は丘の作品集に収録されています。

どんな歌なのか気になりますね。

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