古関裕而は、昭和5年(1930年)6月に結婚しました。

当時、古関は20歳、妻「金子(キンコ)」は18歳。

それは古関が作曲家としてデビューする直前でした。

 

こちらが結婚直後の写真。

背景は時代を感じるものの、2人は昭和5年とは思えないほど

素敵ですね。

斎藤秀隆著「古関裕而物語」

ここでは、古関と妻金子のなれそめや

自伝「鐘よ 鳴り響け」や「古関裕而物語」(斎藤秀隆著)から見える

2人のエピソードをご紹介します。

 

古関は結婚後も妻に年賀状を出した? 

 

古関の自伝「鐘よ 鳴り響け」には、残念ながら

妻「金子」の話はほとんど書かれていません。

 

が、自伝の最後のほうに「菊田一夫」との対談があり

金子とのエピソードが語られていました。

 

古関は、妻金子に「今年も仲良くしましょうね」と

年賀状を出したとか。

 

同じ屋根の下にいる奥さんに、わざわざ郵便ポストに入れて

年賀状を出すなんて、と菊田一夫は語っています。

 

このエピソードが語られた対談「告白もまた楽し」は、

昭和30年(1955年)5月8日の内外タイムスに掲載されました。

結婚して20年以上経っても、妻に年賀状を出すなんて

古関のお人柄がしのばれるエピソードですね。

 

菊田一夫は劇作家。

古関とは昭和12年(1937年)に出会い、

初めはNHK放送劇の作者・音楽担当者として仕事をします。

菊田一夫(NHK人物録)

 

古関は、菊田の第一印象をこのように語っています。

 

小柄で、鼻下に髯をたくわえ、ちょっと神経質そうに

見受けられたが、話してみると案外に優しく、

私と同じように少々どもる癖があるので、一層親しみを感じ、

この人が、今をときめく古川ロッパ一座の座付作者かと思った。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

この後、菊田が亡くなるまでの約36年間、

2人は名コンビとしてたくさんの名作を作りました。

 

話を対談に戻すと、この時、妻金子と娘さんも同行していて

記者が金子を「お嬢さん」と間違えたとか。

 

この頃の家族写真がこちら。

娘さんは20歳位のようですが、とても大人っぽく見えますね。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

記者に「お姉さまですか」と言われて

金子はいい気持ちだったそうです。

 

2人の出会いは「竹取物語」

 

古関は、昭和4年(1929年)にイギリスの作曲コンクールに

応募し、見事2等に入選します。

 

それは「竹取物語」という舞踊組曲で、

古関が商業学校時代から作曲を始めたものでした。

 

古関は昭和3年(1928年)に学校卒業後、

親元を離れ、銀行員をしながら作曲を続けます。

 

古関は、2等入選の事実を一人の恩師にだけ告げていました。

 

年が明けた昭和5年(1930年)1月。

2等入選の記事が新聞に掲載され、

その記事は遠く離れた地に暮らす金子の目に止まります。

 

「竹取物語」は、かぐや姫の物語をオーケストラに作曲したもの。

 

金子は、小学校5年の時に学芸会でかぐや姫の役をやり

それ以来「かぐや姫、かぐや姫」と呼ばれたそうです。

「竹取物語」の新聞記事を見て、

金子は運命を感じたかもしれませんね。

 

金子は音楽学校への進学を考えていたほど音楽好きで、

「竹取物語」の楽譜が欲しいと思い立ち

古関にファンレターを出します。

 

2人のラブレター

 

音楽の道に進みたいという金子からの手紙に、

古関は「楽譜はイギリスへ送ったが、控えを整理して

まとめたら送ります」と返事を出します。

 

その後、文通がしばらく続き、2人は6月に結婚。

それまでの期間は3~4か月だったとか。

 

2人のラブレターはたくさんあったようですが

古関が亡くなるまで、娘さんも息子さんも開封できませんでした。

今では、その一部は「古関裕而物語」(斎藤秀隆著)や

こちらの記事で目にすることができます。

裕而に宛てたファンレター

 

記事に載っている写真を見ると

「貴女が恋しくて恋しくて心が踊ります」とか

赤いハートマークがあって、キュンキュンしますね。

2人の文通期間をまとめた書籍「君はるか」には

もっと胸がときめくような手紙が載っているかもしれませんね。

音楽学校と合唱と

 

古関は、6月に金子と結婚し、しばらくは福島で暮らした後

9月には作曲家として活動するため上京します。

 

そして、翌年の昭和6年(1931年)4月に、

金子は帝国音楽学校に入学します。

 

2人は世田谷代田に新居を構え、

近所に住んでいた福島県出身の伊藤久男と出会います。

 

伊藤久男は、通っていた農大をやめて金子と同じ音楽学校へ通い

後に古関作曲の歌を歌い、数多くのヒットを飛ばします。

伊藤久男(Wikipedia)

 

金子は、音楽学校に通う一方で

古関のいとこが所属していた合唱団に夫婦で入ります。

 

妻が練習に通うのに私が同伴でついていくうち、

歌声につれて私もバスを歌うハメになった。

妻はソプラノを歌っていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」


また、古関は合唱団メンバーの友人宅で

ハーモニカの勉強会にも参加します。

 

菅原明朗(メイロウ)という音楽理論家の大家から

約2年間、本格的な理論を学んだそうです。

 

古関は、上京して作曲家としてデビューしたものの

昭和10年(1935年)にヒット曲が出るまでは

「苦しい時があった」と後に語っていますが

2人は音楽を学びながら共に成長していたのでしょうね。

 

疎開中も音楽を

 

金子は、メロディーつきで「ご飯ですよ」と呼びかけたり、

夕食の時は決まった曲をピアノで弾いて子供たちに知らせたりと

家庭の中でも音楽を楽しんでいました。

 

戦争が始まってからも、家の中では音楽が流れていました。

 

戦争中も折ある毎に歌っていた。

警戒警報発令中でも、準備万端整えてから

まっ暗な部屋で私の伴奏で歌ったりしていた。

陸軍病院に慰問して歌ったこともある。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

終戦直前に、金子は疎開先で腸チフスにかかります。

一時は意識不明になるほど重篤でしたが、無事に回復。

 

チフスで休んでいる間に、声帯は十分休息したとみえ、

練習を始めた声は澄みきって実に美しかった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

古関も絶賛するほどの金子の歌声。

疎開先の住まいで金子が歌うと、

外ではアメリカ兵たちが静かに聞いていたそうです。

 

古関たちは小学校のピアノを借りて練習することもあり、

小学校で音楽会を開いて金子の歌を聞かせたこともあったとか。

素敵なエピソードですね。

 

音楽を学び、楽しんでいた金子ですが

戦後、長男を出産してからは家庭を優先したようです。

 

妻は次第に家庭的に忙しくなり、

残念ながら歌を歌う機会を逸してしまうが、

家庭を守りながらも私の仕事のよき理解者であり、

よきアドバイザーでもあった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

金子は、家の中でよく歌っていたようです。

いま、その歌声を聞くことは叶いませんが、

それは息子さんの中に、大事な思い出として残っています。

今日は古関金子の命日(長男古関正裕のブログ)

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