古関裕而は、家業の呉服店「喜多三(キタサン)」を継ぐために

福島商業学校(以下、福商といいます)に入学します。

 

が、その後、店は廃業となってしまい

福商を卒業した古関は音楽漬けの日々を過ごします。

 

そんな古関に声をかけたのが伯父の「武藤茂平」。

自らが頭取をしている川俣銀行に勤めないかと誘います。

 

古関は親元を離れ、伯父の家に下宿しながら

丸2年、銀行勤めをします。

 

ここでは、銀行員時代の古関がどんな生活をしていたのか

ご紹介したいと思います。

 

商業学校卒業後の古関

 

商業学校時代の古関は、学校の勉強よりも

作曲やハーモニカの活動に熱中していました。

 

自伝「鐘よ 鳴り響け」には、

「卒業後は音楽生活に明け暮れ1、2年が過ぎた」とありますが

実際は、卒業した年の5月から銀行勤めをしていますので

音楽漬けの生活は、ほんの2~3か月だったようです。

 

伯父の家は古関の母の生家で、川俣町にあります。

福島市の古関の家から20kmほど離れた伯父の家は

小さい頃、母と一緒に何度も行っていたところ。

 

古関は伯父の家に下宿しながら銀行に通い、

毎週土曜日と日曜日には福島に戻って、

ハーモニカ・ソサエティーの練習に参加していました。

 

川俣銀行での仕事ぶりとは?

 

古関に銀行勤めを勧めた伯父「武藤茂平」は頭取、

茂平の弟である「武藤二郎」も川俣銀行に勤務していて

古関は一番の末席でした。

 

小さな町の小さな銀行であるから行員も四、五名で、

平日はのんびりしたものだった。

だが、週に一度絹と生糸の“市(イチ)”が立つ時は、

銀行の中は人で埋まり、終日大変な騒ぎであった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」


こちらは古関が銀行勤めしていた頃の銀行前の写真です。


斎藤秀隆著「古関裕而物語」


祭礼の風景なので人がたくさんいますね。

絹と生糸の「市」のときもこんな感じだったのでしょうか。

 

銀行では末席だった古関ですが、

月に数回ほど大役を任されていました。

 

その大役とは、なんと「現金輸送」

 

福島市の安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行)から

「10円札で10万円位の札束」を持って来るのです。

 

昭和3~5年頃の10万円ですから、

少なくとも1億円以上はあったのでしょうね。

 

札束は、「無雑作に木綿の風呂敷に包んでバスで帰る」方法で

運んだとか。

 

行きはヨイヨイ、帰りはコワイで、他の乗客に、

それと気付かれぬ様にして内心はビクビクものだった。

しかし一度も間違いは起こさなかった。

「川俣銀行と私」

<川俣の歴史 写真集>第二集 発行日平成4年12月4日 発行者:大泉吉三

 

 

銀行は、「市」のとき以外は暇だったようで

古関は帳簿の間に五線紙をはさんで作曲ばかりしていました。

 

この頃、古関は「本多青華」と知り合います。

「本多青華」は、家業のかたわら文筆活動をしていて

後に、古関とともに「川俣音頭」や「川俣中学校校歌」を作ります。

 

古関が銀行勤めをして1年ほど過ぎた頃、

福商で同級生だった「木村正夫」が入行してきます。

 

木村は療養のため実家に帰ったようで

その実家とは呉服店「仙䑓屋(センダイヤ)」。

 

お店は川俣銀行のすぐそばにあり、

現在も当時の雰囲気を感じることができます。

 

再会は二人にとって大きな喜びでした。

業務が終わると、二人で近くの丘に遊びに行ったり

詩の好きな木村は作品を作ったり、古関は作曲したり。

また、他の仲間と一緒にジャズの会を作ったりして

賑やかで楽しい日々を過ごしていたようです。

 

古関の音楽活動は?

 

古関は、銀行勤めをしていた2年の間も

積極的に音楽活動をし、勉強も続けていました。

 

銀行に勤めるようになったものの、

私の音楽熱はそれまで以上に高揚していた。

音楽活動に費す時間は益々増える一方である。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

福商時代から続けていたハーモニカ・ソサエティーは

週末の練習に出るだけでなく、定期公演も参加。

 

母校主宰の「レコードコンサート」に参加し

「音楽会」は、中心演奏者として出演していました。

 

また、下宿先(伯父の家)の裏にあるお寺では

文学青年だった住職と万葉集を読んだり曲をつけたりと

貴重な経験をしています。

 

この頃、古関はその音楽人生に大きな影響を及ぼした

二人の人物と出会います。

 

その二人とは、山田耕筰竹久夢二です。

 

山田耕筰との出会い

 

古関は、福商時代からハーモニカ合奏曲の編曲や

オーケストラの作曲を始めています。

 

音楽に関する勉強は独学で、

山田耕筰の「音楽理論」や「近世和声学講和」で学び

その楽譜はそらで覚えるほどだったとか。

 

そして、古関は自分の作品の中から数点を選び

手紙を添えて、山田耕筰の事務所に送ります。

 

私は一大決心して、学生時代からあこがれていた山田耕筰先生に

手紙を書くことにした。自分の作品を先生に見てもらいたいと

思い始めて一年以上も経っていた。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

山田耕筰は楽譜の返却時に「がんばりなさい」と手紙に添え書きしたり

その後、手紙の往復のたびに言葉を書き添えたりしていました。

 

ずっと憧れて尊敬している方からの言葉に、

古関は本当に励まされたようです。

 

その後、古関はコロムビア専属の作曲家となり上京します。

それは、コロムビアの顧問を勤めていた山田耕筰の推薦が

あったからだと、古関は後になって知ることとなります。

 

竹久夢二との出会い

 

古関は、大正7年頃に福島で開催された「竹久夢二展」を

見に行っています。

当時、古関は小学生でした。

 

古関は、福商時代から妹尾(セノオ)楽譜を買って

編曲などの勉強をしています。

 

妹尾楽譜の表紙は、竹久夢二などの有名画家の絵が

用いられていました。

 

現在は、インターネットでその一部を見ることができます。

竹久夢二の妹尾楽譜(画像検索)

 

古関が銀行勤めを始めた翌年、

昭和4年(1929年)にも福島で竹久夢二展が開かれました。

 

会場で、古関はある作品に深く感動します。

 

それは、「福島夜曲」と題した詩画。

 

古関の自伝によると、それは奉書の巻紙に

十二の民謡調の歌が書かれてあり、

それぞれに水墨彩色の絵が添えてあったとか。

 

夢二が滞在中に即興で書いた作品に感動した古関は

作曲を思い立ち、詩を全部ノートに書き写します。

 

自宅に帰るとすぐに部屋にこもり、作曲した古関は

楽譜を手に、夢二の宿を訪ねます。

 

古関は内気な性格ですが、これほど大胆に

行動することもあったのですね。

 

夢二さんは、おそらく紺絣(コンガスリ)を着た

二十歳ばかりの田舎少年が何の用で来たか、と

思われたであろうが、快く会ってくださった。

自伝「鐘よ 鳴り響け」

 

古関は作曲した楽譜を夢二に渡し、自ら歌って聞かせます。

 

後に、この楽譜は竹久夢二展で展示されることになり

「福島夜曲」は古関の初レコードの裏面に収められました。

 

昭和5年(1930年)7月頃、再び福島で竹久夢二展が開かれました。

 

5月には銀行を辞め、6月に結婚していた古関は

夢二に妻を紹介します。

 

古関は夢二から詩が書かれた扇子を贈られ、

その後、夢二との文通はずいぶん続いたとか。

 

イギリスの作曲コンクールで入選

 

古関は銀行勤めをしながら、イギリスの作曲コンクールに応募し

2等に入選しています。

 

それは新聞にも大きく取り上げられるほどの快挙ですが、

なぜか、古関の自伝には全く書かれていません。

 

入選した曲は「竹取物語」。

1つの前奏曲と8つの舞曲で構成された舞踊組曲で、

作曲を始めたのは福商在学中だったとか。

残念ながら楽譜は残されていないようです。

 

コンクールは、ロンドンの「チェスター楽譜出版社」が募集し

古関は賞金4000円と渡英留学の機会を獲得します。

 

古関の入選が新聞に掲載されたのは昭和5年(1930年)1月。

 

古関は恩師「丹治嘉市(カイチ)」だけに、

入選したことと渡英の準備を進めていることを手紙で伝えます。

 

が、古関は渡英せず、6月に結婚します。

 

2人が出会ったきっかけは新聞記事でした。

古関の記事を見た「金子(キンコ)」がファンレターを送り、

2人は文通を経て瞬く間に結婚。

なんともドラマチックですね。

 

古関が金子と知り合った頃でしょうか、

コロムビアから専属作曲家にならないか、という話がきて

古関は銀行を辞めることになります。

 

ここで、丸2年勤めた銀行員の生活も、川俣町での生活も終え

古関は作曲家になるべく、妻金子とともに上京します。

 

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